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執筆者の写真Massako Mizoguti

讃岐仁尾の八朔だんご馬

旧ホームページ(この記事は2014.9にアップ)より転載

四国、香川県西部にある海沿いの町、仁尾の八朔だんご馬です。 今年は、思いがけず「第17回 仁尾八朔人形まつり」へ出かけることができました。 大きいほうは、持って歩くのがやっとな重さで、高さが50㎝もあります。 小さい馬は町内で販売されていたもの。この大きさだと「ししこんま」と呼ぶそうです。 だんご馬のほかに、鯛など小さなしんこ細工(決して小さくはない)もつくるのですが、 その小さい細工ものを総称して「ししこま」(ししこんま・まえかざり)と呼ばれます。 以前訪ねた牛窓の「ししこま」も、こうした風習とつながるのでしょう。 そもそも八朔行事の根本は、稔りはじめた稲の成熟(=子どもの成長)を祈ること。 しんこ(米の粉をこねたもの)や、稲藁で、馬などをつくる行事が主に西日本に残ります。 特に瀬戸内海を囲む沿岸部の町々では八朔行事が盛んに行われ、 手のかかる細工ものをつくって飾ったり、贈ったり、分かち合う風習が顕著でした。 対して東日本、それも日本海側には、気候の関係か半年違いの2月にしんこ細工や藁馬の行事が集中しています。 また、2月朔日は「くつわの朔日」ともいって、小作人や奉公人の雇い入れの日でした。 8月朔日も宮中では除目の日でしたし、奉公人などの契約の終わる節目の日でもあったようです。 そのため、お世話になっている人に贈りものをするタイミングでもあったかと思われます。そして、八朔に天皇へ献上されたのが馬でした。 仁尾は瀬戸内海に面し、海運・舟運により栄えました。 八朔に初節供を盛大に祝い、雛人形も3月ではなく八朔に飾るものでした。 仁尾の町では、仁尾城主・細川頼弘公が、戦国時代の天正7年3月3日に城とともに命を落としたことから、城主の命日である雛祭りにではなく、

八朔にお雛さまを飾るようになったと言われています。 一方で、「八朔雛」の風習は西日本にはあちこちで見られ、庶民の家庭行事としての定着は3月の雛飾りより古いようにも思われます。 八朔の祝いにはだんご馬が欠かせないので、「馬節供」とか「初馬(午)」とも呼び、

盛大にお祝をしました。

神功皇后は闘いのなかにありながら、後の応神天皇を生み育てたことから

八朔節供には欠かせない武者人形。 右は雛段もならび、だんご馬と大きな張子の虎も迫力がある。

お供えは「ししこま」に替えてお砂糖の鯛や松竹梅、そして「おいり」など。 八朔かざりを見に行くと、「おいり」や供物などを分けてもらえました。たくさんの人がもらってくれるほど子どもが幸せに育つとされたのです。 讃岐のあちこちでつくられた、力強く跳ねたり跳んだりし大きなしんこ馬には、 うまく稔りますように、立派な人間になりますようにとの願いがこめられているようです。 男の子が生まれた年の八朔には、お嫁さんの実家からだんご馬が贈られ、 その他の親族からは、仁尾でつくられる張子の虎や神功皇后などの人形を贈られました。 初節供を迎える子がいる家では、八朔が近づくと座敷の畳をあげ、背景を描いた幕を張り、 この日のために育ててあった植木、海岸の砂、裏山の芝や苔などを運び込み、 仁尾の町に何人もいたという人形師さんに特注した武者人形を配して、

箱庭風のジオラマを造りました。 そしてそこに、贈られただんご馬と張子の虎や八朔人形を飾るのです。 夕暮れになると、町の通りにはちょうちんの明かりが灯され、 よそからも人がやって来て、そぞろ歩いては格子戸越しに見物したそうです。 子どもたちもあちこち回り、あそこがいい、ここがおもしろいと批評したそうです。 見に行くと、「おいり」などをもらえ、誰にとってもワクワクする八朔行事でした。 今もとりどりのちょうちんがさがっていて、その名残を感じさせてくれます。

左:右端に市松人形が見えますが、昔の初節供の時の着物を着せて飾るのだそうです。 右:このだんご馬は一番上の写真の高さ50㎝の馬です。

家々で豪華な飾りをつくることができるほど、近隣からの買いもの客で賑わったため、

「仁尾買いもん」という言葉があるほどです。 そうしたお客さんたちの目をひきつけるため、八朔飾りはますます盛んになったようです。 しかし、子どもの数も減り、人の流れも変わり、八朔の風習も廃れてきていました。 とはいえ、まだまだ腕に覚えのある方たちがたくさんいて、

人形師さんも数は減ったとはいえ健在だったこともあり、 17年前から、町民主体で「仁尾八朔人形まつり」として、ジオラマが復活したのです! 飾る場が店先や車庫などに変わりましたが、

おかげで昔ながらの八朔飾りを気軽に楽しむことができます。

その年の大河ドラマもジオラマのテーマに。右は動く人形劇仕立ての「花咲か爺さん」。


だんご馬はお米を1升、2升の単位でつくり、1升馬とか、1斗馬と呼ばれたそうです。

大きな商家などでは1斗、2斗も使ってだんご馬をかざったそうです。

一番上の写真の大きいほうの馬が2升5合馬です。

2升5合は「ますますはんじょう」といって、縁起かつぎも念入りです。 真鍋人形店さんで、古い「馬の台」(写真下)をみせていただけました。

裏に昭和五年と墨書。残念ながら、前足用の鉄の棒がとれてしまっています。

この馬の台をつくる鍛冶屋もいなくなり 町では祭りで使う馬の台を毎年大切に保管されているそうです。 この馬の台に、しんこ生地をつけて跳ね馬に細工し、色つけをし、子どもの帯などを結び、 轡や手綱、シュロのたてがみと尾をつけていくのです。

目玉はガラス玉なども使っていたそうです。

そして、町民たちでだんご馬づくりの講習会も開き、技術も伝承されています。

ここ3年ほどは、仁尾からお嫁さんをむかえた丸亀の方が教えにきてくださるそうです。

丸亀にはだんご馬をつくるお菓子屋さんもまだあります。

そのうちの1軒は「おいり」や「ふくらんご」も焼くお店です。 昔は団子馬をこわした後、食べました。 普段はお米をわざわざ粉に挽いてつくるまっ白い団子など食べられなかったので、

おいしかったと聞きました。 米の粉などいつでもスーパーで買える現在では想像できないような話ですが、

たかだか50年ほど前のこと。 ただそのあとにお約束の「やいと」(お灸)が待っていて、どなたに聞いても

「団子は食べたし、やいとは怖し」だったそうです。 「団子とやいと」のセットは、子どもが丈夫に育つためのおまじないでもあったのでしょう。 ひとつのジオラマに背景画、植木、だんご細工など、それぞれの得意なことで参加し、

町じゅうで楽しんでいる様子が伝わってきます。 幼稚園児や小学生の作品展示や、香川高専の学生たちがつくる電動式の舞台など、

現地情報満載の「週刊みとよ」のレポートでご覧ください。 開催日は毎年違うのですが、今年2014年は9月21・22・23日でした。

期間中は修復中の旧家松賀屋も公開されました。 主催の仁尾八朔人形祭り実行委員会の会長・西山弘茂さんをはじめ、

町の方がたには大変お世話になりました。 私が新潟日報夕刊に書いたエッセイ「八朔の馬、2月の犬」もよろしかったらどうぞ。


2014.9

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